浪曲「清水次郎長伝」の名調子で知られる清水港・・・現在の清水銀座は江戸時代から東海道五十三次の「江尻の宿」として賑わい、茶屋なども多く集まった場所でした。
大正時代の清水志茂町(現 清水銀座周辺)
 

  大正から昭和の初めにかけては、芸妓置屋の数も30軒、芸妓衆も150人を上回るなど、港の発展とともに花柳界も大いに賑わいを見せていましたが、 高度成長期以降、各地の花柳界が衰退するのと同じく、清水の花柳界も寂しさが目立つようになってしまいました。

    さて、「清水芸妓」というように、静岡県内の温泉地を別にして、何故清水の花柳界だけが静岡県内では残りえたのでしょうか・・・
    清水は静岡や浜松と違い特定重要港湾の清水港を擁する物流拠点として長い間その重責を担ってきましたが、清水芸妓はこれらの経済活動を陰で支え、長い歴史の中で欠くことのできない存在となっています。そのような歴史的側面が清水の花柳界を残したとも言えますが、反面、清水の芸妓衆の絶え間ない芸に対する精進とひたむきさが高い水準を保っているともいえるでしょう。
 

  加えて、清水の芸妓衆は「清水おどり」(平成10年まで実施・その後は毎年秋に「紅葉の宴・名月の宴」として実施)と銘打った芸事の発表の場を自ら設け、一般の方々に日頃の成果をご覧いただいたり、外航客船の入港時に歓迎の舞を披露するなど、日常のさまざまな活動をとおして多くの市民の目に見える形で存在を示してきたことも大きな理由となるでしょう。

 
港まつりの船の山車で踊る芸妓衆
   花柳界の衰退に伴い、清水芸妓も存続の危機に追い込まれたこともあります。
   しかし、その危機を乗り越え、今日に至るまで清水の花柳界を存続できたのは、今までの伝統を守ろうとする地域の協力体制もさることながら、芸妓衆自身の努力も素晴らしく、まさに「芸は身を助ける」の良き実践例ではないかといえるでしょう。
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